コロナ禍で近隣の駅ビル内に数件有ったプチプラの雑貨屋さんが一気に閉店して少なからず淋しく思っていたところ、秋になって生鮮食品(海鮮と肉と野菜)を扱うマーケットが開店。如何にもご時世だなぁと思いながら店内を覗いてみていると、なんと、 大好物のサザエが大量に並んでいる! 横浜から東京に居を移して以来30年余、マーケットや魚屋さんで活サザエにお目に掛かれることは滅多にない。しかも、かなりの安価だったので迷わず購入。実は、サザエには、亡き両親との思い出が沢山ある。信州の山育ちだったせいか海産物が大好きだった父親に連れられ、幼少期から休日には湘南や千葉、時には伊豆辺りまでドライヴして海の幸を家に購入して持ち帰り、母が料理の腕を振るって家族で食すということがしょっ中で、サザエは、その定番だった。私自身は生きている魚介類を触ることさえ苦手で、手際良くサザエを調理していく母の姿を側について感心しながら見ていただけだったが、今となっては“見て習った”状態で、尊敬と感謝の念が改めて湧いてくる。「サザエは、そのまま丸ごと網焼きにするのが一番」という向きも多いと思うし、私自身も時と場合次第で、それに倣うが、家で−となれば、やはり母の調理法を再現したくなる。ウォーターグリルで熱を加えた後、中身を取り出して切ってから殻に戻す。醤油とお酒を混ぜたものを注ぎ入れて再び焼く。グツグツいってきたら、三つ葉と柚子を乗せて、いざ戴く!
そして、この御馳走のお供に選んだお酒はといえば、シャンパンだ。実は、6年ほど前に難病を発症して以来は、めっきり飲酒をしなくなっていたところが、コロナ禍のクリスマスに一杯くらいなら−と、輸入食料品店に足を運んでみると店先に山積みのシャンパンが。しかも、これまた信じ難い安価。なんとワンコイン! おそらくはコロナ禍の影響だろう。日本では長らくシャンパンで一般的に知られた銘柄といえばドンペリとモエくらいで、極めて贅沢なお酒という印象だった。実際、シャンパンを日常的に家飲みするなどというのは、余程のセレブか所謂パリピと言われるような人々と思われて久しい。私自身は、20代〜30代にかけて公私共に海外へ出ていることが多く、特に欧州滞在に於いては、このお酒が断然日常的で身近なものとして消費されていることを知ってはいたが、日本では所謂、ハイブランド以外の安価なシャンパンの一般的な流通が殆ど見られなかった。ところが、コロナ禍の昨年末には一気に状況が一変。酒店はもとよりスーパーやコンビニでさえ、コスパを実感できるようなシャンパンが大量に流通するようになっていて驚いた。まぁ、正しく言えば、安価で購入できるようになっているのはシャンパンではなく、スパークリング・ワインなのだけれど…。ともあれ、おっかなびっくりの数年ぶりの飲酒。極めて久々のシャンパンの酔いは、期待以上の悦びを齎してくれた。ひとことで言えば“華やかな”酔い。そして、その酔いの中で聴きたくなったのはーと言えば、他でもない、Barry White!
“シンフォニック ソウル”と称される華やかで晴れやか。まさにゴージャスそのものな音世界がピッタリと来る。サザエとシャンパン、それにBarry Whiteで、幸少ないコロナ禍にあって、束の間、この世の悦楽を満喫できた一夜でした。是非、お試しあれ!
The Soul VIPs Selection〜 Barry White
2003年、7月4日に惜しくも他界したSoul VIP。番組では、その訃報から、約ひと月後の8月12日にシリーズ特番『The Soul VIPs』で彼を取り上げてOn Airしました。NA台本に若干の加筆修正したものです。
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1970年代に一貫して愛をテーマにしたゴージャスかつロマンティックなヒットソングの数々を連発してDiscoブームの幕開けを華やかに彩ったBarry White。ソウルにオーケストラを導入した画期的なシンフォニック・サウンドをバックに聴かせる、とびきりセクシーな魅惑の低音ヴォイス。そして、まるで耳元で囁くかのような独特のスムースな語り口で、生涯を通じて1億枚のセールスを記録した世界的な人気者です。
1944年、9月12日にテキサス州はガルヴェストンに生を受け、生後1年も経たないうちに一家でLAへと移住。この地が彼にとっての生涯の地となりました。
ピアノ教師の経歴を持つ母親から多大な影響を受けたというBarryは、幼い頃から母親が聴いていたシンフォニーやソナタのレコードを熱心に聴き入っては、“音楽の神秘に魅了されていた”と言います。そんな彼を特に虜にしたのは、ヴァイオリンの奏でる美しい音色とメロディーでした。一方、幼くして近所の教会でゴスペルを歌っていた彼は、少年時代にはすでにクワイアの指揮を取るに至っていて、その後の夢を伺わせていました。
ところが、16歳の時、彼はその人生の大きな転機を迎えます。貧困と犯罪が蔓延する地区、サウスセントラルで育った彼は、当時はその荒んだ環境の中で、所謂、悪の道を突き進んでいました。
双子のようにそっくりだったーという弟と二人で無敵のタグ チームを組んで、喧嘩や窃盗に明け暮れる日々。そんな或る日のこと、高級車のタイヤを盗んでいたところを遂に御用となり、Barryは少年院送りとなってしまったのです。この時、彼は自らの将来について、じっくりと考え直しました。
― こんなことは、もう2度と嫌だ。犯罪から足を洗って、真人間になって人生を音楽に捧げることにしよう ―
Barryは、まさに一大決心をしたのです。とはいえ、その後の成功への道のりは、長く、険しいものでした。出所後、すぐさま音楽活動を始めた彼は程なく、ソングライター、アレンジャー、セッション ピアニストなど裏方としての仕事をこなすようになりますが、収入は一向に安定せず。高校時代からの彼女と若くして結婚したBarryは、60年代半ばには既に4人の子供の父親になっていました。家族を養う為、工事現場にバーガー屋に玩具屋と、あらゆる仕事を次々とこなしながら、Barryは、明日の成功、その夢を信じて懸命に日々を生きていました。
それから数年を経て、Barryが何曲か、そこそこのヒット曲を手がけるようになっていた1972年。彼自身が発掘した3人組の女性グループに歌わせた曲がスマッシュヒットを記録したことを受け、翌73年、Barry本人もシンガーとしてデビュー。
更にこの年、ついに彼は自らのオーケストラを組織して、自分のイメージするサウンド世界をトータルに構築する−という壮大なヴィジョンも実現させました。
Barry大躍進の年、1973年の大ヒット曲としては、Love Unlimited Orchestraによる「Love’s Theme」。日本でもテレビCMに起用され、「愛のテーマ」の邦題で広く親しまれてきた全米No.1ヒット。そして、Barry自身のデビュー ヒット「I’m Gonna Love You Just A Little More Babe」。R&BチャートNo.1、Popチャートでも3位をマークした大ヒット曲で、こちらも「募りゆく愛」という邦題がありました。
さて、Barryが、こうした成功への足掛かりを作った彼のプロデュース作品はといえば、Love Unlimited による72年のスマッシュヒット「Walking In The Rain With The One I Love」。
退社際の女性達が交わす別れの挨拶、突然に降り出す雨のオトーと、イントロからしてストーリー性に溢れたBarry一流のドラマティックな演出が余すところなく発揮された1曲で、Barry自身も曲中の電話の相手役として、さり気に出演しているこの曲は、日本でも「恋の雨音」の邦題で長年にわたって親しまれている名曲です。
Barryが60年代末に自ら発掘し、育て上げ、自ら命名してデビューさせた女性3人組、Love Unlimited。ちなみに、後にBarryの再婚相手となったクロウディーンは、このグループのメンバーでした。このグループをデビューさせた当初、Barryが描いていたヴィジョンは、“女性グループとオーケストラを共演させること”であり、“自分で歌おう”という発想は全く持ち合わせてはいなかったと言います。
“アーティストとして脚光を浴びることよりも、作曲、アレンジやプロデュースを手掛ける裏方のクリエイターの役どころに徹したい”―Barry自身は、そう考えていたというのです。しかし、“その類稀な低音ヴォイスを生かさない手はない”と周囲の関係者達が数ヶ月にわたってBarryを説得。遂に彼をマイクに向かわせたーという、そんなエピソードも残されています。
当時のBarryにとっての最大の関心事は、オーケストラに有りました。
1973年、「I’m Gonna Love You Just A Little More Babe」のヒットでソロデビューを成功させた彼が、早速設立した念願のオーケストラ、それが、40人編成のLove Unlimited Orchestraでした。
リズムセクションが打ち出す肉感的なファンキー グルーヴの上をストリングスが舞い、女性コーラスやフルート、フレンチ ホーンなどが美しいメロディーを奏でる華麗なるシンフォニック ソウル。
ロマンティックな愛のムードをドラマティックに盛り上げる、このBarryの音世界は、瞬く間に広く人気を博しました。
まさしく“愛のマエストロ”として、彼は70年代にもっとも大きな成功を手にしたソウル アーティストの一人となったのです。
特に、ディスコ ブームが世界を席巻した70年代後半、見事、その波に乗ったBarryは、一躍、大スタートなりました。
Barry WhiteとLove Unlimited、それにLove Unlimited Orchestra―と、それぞれの名義でアルバムを次々とリリースしては、その、いずれに於いても、ベストセラーをモノにしていきました。
そんな上り調子時代のBarryの大ヒット曲として特筆すべきは、73年、R&Bチャート2位、Popチャートでも7位をマークした「Never Never Gonna Give You Up」。邦題「忘れられない君」。
74年、Love Unlimited Orchestraの「Love’s Theme」に続く2曲目の全米No.1ヒットとなった名曲「Can’t Get Enough Of Your Love」。邦題「溢れる愛を」。ファンの間では最も愛されて今に至る彼の代表曲の一つです。
さて、Barry Whiteといえば、人々が真っ先に思い浮かべるのは、まるでヴェルヴェットさながらの質感を持つ、その魅惑的な低音ヴォイスでしょう。
本国での昔のインタヴュー記事によりますと、少年時代のある朝のこと、Barryは、突如として、あの声になっていた−んだそうです。
その朝、目覚め、その日の第一声を発したBarryは、自分の喉から発せられた、その声に自分でもビックリ! 何が起こったのか理解できず、怯えて母親を見やると、案の定、彼女の方も驚きの表情で、二人は一瞬、無言で見つめあってしまいました。しかし、次の瞬間、母親は微笑んだかと思うと涙を流して喜んだのだそうです。
−やっと息子が一人前の男になった−と。
こうして声変わりと共に、突如授かったという、このBarryの低音ヴォイスが語り、歌い紡ぐは、ズバリ、愛と官能のメッセージです。
ゴージャスかつロマンティックに、そして、何よりセクシーに愛のムードを盛り上げる彼の音楽―そこには、徹底的な女性への賛辞をベースに、おおしくも、常に紳士的で誠実な男の愛が、多く描き綴られています。
−君のような女性は、この世にただ一人。こんなにも素晴らしい女性が二人と居るハズがない。僕は君だけのために生きる。君への愛は本物だ。君は僕の全てだから-と歌う「You’re The First, The Last, My Everything」。
そして、何事も過ぎたるは猶及ばざるが如しって言われるけれど、でもBaby、どうかな? 君とは幾度愛を分かち合い、愛の営みを重ねても飽きたらないのさ。ダーリン、君の愛なら幾ら有っても有りすぎなんてことはない-と歌う「Can’t Get Enough Of Your Love」。
果たして、Barryが打ち出した、こうした理想の恋人達は、見事に広く人々の心を捉えました。実は、Barryは高校時代から、所謂、“恋のご意見番”として、仲間内では大いに頼りにされていた存在だったそうです。そんなBarrryの“愛のマエストロ”ぶりが存分に堪能できるナンバーとしては、
76年のR&B14位のヒット曲「You See The Trouble With Me」
邦題「恋のトラブル」。
―僕の弱みは、彼女なしには何もできないってことさ-と、自分の彼女を称える爽快なUpチューンです。
更に、77年、R&Bチャート1位、Popチャートでも4位をマークした大ヒット ナンバー、「It’s Ecstasy When You Lay Down Next To Me」邦題「エクスタシー」。Barryのセクシーな語りがフィーチャーされたこの曲のタフなグルーヴは、Mary J.Bligeを始め、ヒップホップや現行R&Bのアーティスト達にサンプリングされ続けて今に至りますが、今聴いても実に新鮮に響く1曲です。
一躍大スタートなった1973年以来、Barryは自分名義のアルバムと並行して、Love UnlimitedやLove Unlimited Orchestra名義での作品を次々と世に放ちました。実に、70年代末頃までは、年に二枚と言うハイペースでの作品リリースを続けていた彼でしたが、しかし、80年代に入る頃には、そのペースは落ち着きを見せ、ヒット曲も次第に途切れてしまいます。
そして、83年のこと、そんなBarryに更に追い討ちをかけるような悲劇が襲い掛かりました。
子供の頃、一緒に街で暴れていた最愛の弟のダリルが、些細なトラブルが原因で撃ち殺されてしまったのです。
8歳の頃から少年院を出入りしていた札付きの弟ダリルは、Barryが改心して音楽に人生を捧げると決意をあらわにして以降も、兄に習うことはなく、アウトロー人生をまっしぐら。大勢の景観を相手に多勢に無勢な喧嘩を買って、派手な立ち回りをやらかしてみたり、人質をとって銀行を襲うなど、まさしく、手のつけられない犯罪者へと負の成長を遂げていきました。
つまり、Barryの改心後は、全く両極の道を歩んできた弟だったわけですが、彼とBarryは極めて強い兄弟の絆で結ばれていたのです。まだBattyが名を成すよりも、ずっと前から、誰よりも早くその才能を見抜き、信じてくれていたのも弟のダリルだったといいます。
―Barryは、きっと音楽で大成功して人々に愛される存在となってミリオネアになる!そんなふうに言って、子供時代から常にBarryを激励し続けてきたのは、他ならぬ、この弟だったのです。共に育ち、とりわけ仲の良かった自分と弟―そんな兄弟二人の人生が、いったい何故、こんなにもかけ離れてしまったのかー
弟の理不尽な死に直面して、Barryは深い困惑に陥ってしまいました。
そんなBarryが、ようやく復活の兆しを見せ始めたのは80年代も末のこと。
89年には、久々にR&Bチャートでトップ10ヒットをマーク。
翌90年には、R&BチャートNo.1に輝いたQuincy Jonesによる「The Secret Garden」に客演を果たして再び脚光を浴びました。
丁度、この当時の彼は、日本でもJ-Waveの深夜帯の番組でナヴィゲーターとして、そのディープでゴージャスな語りを聴かせてくれたりもしていたので、ご記憶の方もいらっしゃることでしょう。
こうして90年代を通じて、彼の存在は益々クローズアップされていきました。シーンでは70年代を見直す動きが始まっていたこの当時、Barryの音楽抜きに、かの時代を語ることは不可能なことだったからーです。
若いヒップホップ世代のアーティスト達は、こぞって彼の往年のサウンドをネタとしてサンプルし、Barryの音世界を90年代の最新ストリート グルーヴとして再生していきました。また、NHK総合でも放映されて人気を博したアメリカの人気TVドラマ『アリー・マイ・ラヴ』には実名で登場を果たし、それまで彼を知らなかった新たなファン層を獲得するキッカケにもなりました。
Barry再評価の機運がピークに達していた99年位放たれたアルバム『Staying Power』―果たして、このアルバムは大ヒットを記録し、翌年にはBarryに初のグラミーを齎しました。しかも、一晩に2冠の栄誉でした。
熟年になって、いよいよ万事好調かと思われたBarryの人生でしたが、ところが、そんな矢先の2002年9月―長年患っていた高血圧による腎不全のためBarryは入院。厳しい闘病生活の甲斐もなく、2003年7月4日、Barry Whiteは58歳にして、その生涯の幕を閉じてしまいました。
生前、彼は、こんな言葉を遺しています。
― 私が何より愛する平穏と調和のフィーリング、それは、音楽と共に在る時に必ず訪れる。曲を書いていたり、録音したりしている時に必ず訪れるフィーリングさ。
自分が夢見る、美しく完璧な愛の世界のヴィジョンを、音楽を通して世界に広めたい ―
果たして、その音楽キャリアの生涯を、究極の“愛のムードメーカー”として生き抜いたBarry White。
そんな彼の音楽は、この世に愛を求める男と女が居る限り、未来永劫、世界中で広く愛され続けることでしょう。